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復活節第二主日2023年

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神の慈しみの主日
み言葉の典礼

 復活祭から一週間、満開の桜が姿を消し、新緑とつつじの美しい時期になりました。単純に主が十字架の死から立ち上がり、復活されたことを喜ぶときから、一歩進んで、復活を信じて生きることの意味を考える時になったのではないでしょうか。復活第二主日に毎年読まれる福音は、ヨハネ20章に記された使徒トマスの体験です。アレルヤ唱で歌われた、「トマよ、あなたは私を見たので信じた。見ないで信じる人は幸い」という言葉。この言葉の意味をゆっくり考えてみましょう。

 お聞きになったとおり、トマスは、復活されたイエスが使徒たちにお現れになったとき、なぜか、皆とともにいませんでした。皆がイエスに会った喜びを伝えても、トマスは喜ぶことができません。「わたしはあの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と。このトマスの発言から、彼はいかにも、疑い深い、懐疑主義者のように思われがちですが、はたしてそうでしょうか。

 実際、ペトロをはじめ使徒たちは、イエスの復活を容易に信じようとしませんでした。イエスに出会った、イエスを見た、という仲間の言葉を聞いても、一向に信じようとしなかったことは、マルコ福音書16章に繰り返し記されています。今日の福音のはじめの部分でも、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と記されています。恐れのあまり身を隠していた弟子たちに、イエスが姿を現され、その手とわき腹をお見せになると、弟子たちは「主を見て喜んだ」とあります。イエスの最も近くで起居を共にした使徒たちも、十字架上で亡くなられたイエスが復活して、生きておられるとは、とうてい考えられなかったのです。彼らの目が開かれ、復活を信じることができたのは、イエスご自身が自らを現わし、生きていることを示された、いわば、弟子たちが復活のイエスを直接体験したことによるのです。そして、これは、教会の礎となる使徒たちに与えられた特別な恵みだったことは否定できません。

 トマスは再び機会が訪れたとき、復活された主に出会い、イエスの言葉を聞きます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とイエスに諭され、「わたしの主、わたしの神よ」と素晴らしい信仰告白をします。トマスも、他の弟子たちと同じように、直接復活の主を体験することによって、復活の主を信じる恵みをいただくのです。彼も、他の弟子と同様に、教会の礎となる使徒の一人だからです。

 翻って、わたしたちの信仰を考える時、わたしたちが使徒たちから伝えられた信仰を守っていることは確かです。復活された主を直接体験した使徒たちが語り、復活した主の力によって様々な不思議を行い、教会を発展させた使徒たちの伝えた福音を信じて生きています。使徒たちが受けた特別の恵みとは違う状況の中にありながら、復活について聞き、信じているのです。それは、ある意味で、復活の主に出会う前のトマスの経験とつながります。しかし、主に出会って、復活を信じたトマスにイエスは言われます、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。これは、わたしたち、直接、復活の主を体験することのないものに向かって言われた言葉です。

 わたしたち、教会に生きるものは、直接主に出会うことはありません。しかし、人生の中で出会う様々な苦しみ、痛み、負わされる傷、無力とみじめさの体験、こうしたことを、主が味わわれた苦しみと重ねることができた時、わたしたちは、復活の主に一歩近づくのではないでしょうか。主を直接見ることがなくても、主の受けられた傷を自らの中に見出すとき、また、現在、世界中で人々が負っている様々な傷の中に見ることが出来たとき、イエスを復活させられた神の力が自分の内に働くこと、復活されたイエスが主が今も、わたしたちの内に生きて働いておられることを信じる信仰に導かれるのではないでしょうか。今も、苦しみの中にある多くの人々に、復活の主が与える希望の光が注がれますように。そして、わたしたちも、復活の主への信仰を、日々の現実の中で、一層確信をもって生きることが出来ますよう祈りましょう。(S.T.)

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