昨日4月29日、山口では、広島教区100周年記念誌編纂の大役を務められた肥塚神父と編纂委員の方々の講演、そして、サビエル記念聖堂献堂25周年の記念ミサが捧げられた。広島教区、そして、山口教会を拠点として宣教司牧に尽力された先輩司祭・修道者・信徒の方々にあらためて心から感謝を捧げよう。
今日のみ言葉を振り返ってみると、羊と羊飼いの話が繰り返し出てきたことに気づかれたと思う。またか、と思われる方もあろうが、初めて読むような気持で読み直してみれば、きっと、何か、新しいことに出会うはず。
羊をテーマにした話は、旧約聖書にもよく表れる。今日の答唱詩編、詩編23編は、おなじみの詩編。歌のメロディーが自然に浮かぶ方も少なくないだろう。神を羊飼い、牧者にたとえ、羊であるわたしたちが、信頼を寄せて生きて行くよう励ます、慰め深い詩。他方で、旧約の預言書には、牧者について厳しい言葉を浴びせるものもある。羊のことを心に懸けず、もっぱら自分たちの事だけを考える牧者、当時のイスラエルの指導者・王を批判する言葉も見られる。そこでは、牧者としての使命を果たさない指導者に代わって、神ご自身が牧者になって、人々を導き養うことが述べられている。「わたし自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」(エゼキエル34.11)人の上に立つとき、人々に対して大きな責任を負う立場に置かれたとき、是非思い出したい箇所である。
しかし、旧約聖書が記していることは、そこで終わるのではなく、新約に続き、新約で完成される、神の計画の前半であることを忘れてはならない。新約聖書の中に、「羊」に関係する話がいくつもあることはご存じだろう。それは、イエスの言葉の中に、よく表れている。マタイやルカが記している、有名な「失われた羊」、あるいは、「迷った羊」の話がそうだ。群れから離れ、孤独な歩みを続ける人間をどこまでも探し求め、正しい道に導いてくださる神の慈しみにみちた心を表わすたとえだ。
しかし、今読まれたヨハネ福音書の話はもう一歩進んで、イエスが言われる羊飼いはどのような存在なのか、考えさせてくれる。実は、今日の話のすぐに後に出る有名な言葉、「わたしはよい羊飼いである」から始めた方がよいかもしれない。羊飼いは、主人に託された羊を責任をもって世話するのは当然だが、イエスは、あえて「よい羊飼い」と言われる。それは、ただ羊の世話をするだけでなく、いざと言う時に、自分の命を懸けて、羊を守る存在、「羊のために命を捨てる」ものだと、イエスは断言される。それほど、羊を大事にし、愛する羊飼いがどれほどいるだろうか。口先では立派なことを言いながら、いざとなると、我先にと身を隠す羊飼いを見慣れているのではないか。
今日の箇所でイエスは言われる、「門を通らないでほかの所を乗り越えて来るものは、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである」と。イエスの時代、神が用意された門を通らずに、自分勝手な教えをもって人々を惑わし、滅びに向かわせる人々がいたことを暗示しているのだろう。イエスは言われる、「わたしは門である」と。イエスこそが、神が用意された、神の牧場へと開かれた門である。それは、同時に、イエスが歩かれた道、人々の目には、道とも思えない、細く、狭い、みすぼらしい道かもしれない。あえて、人々が避けようとする、イエスが自ら歩かれた道、十字架に至る道である。しかし、それこそが、いのちに至る門であり、道である、とイエスは言われる。
そして、もう一つの点、それは、羊飼いが、羊の名を知り、名を呼んで、導かれるということ。つまり、羊のことを、遠くから、数だけ数えて、群れとして集団として、漠然と知るのではなく、近くから、そのすべてを知り、その必要を熟知しているということ。「名前を呼ぶ」とは、一人一人をかけがえのない存在として認め、受け入れ、愛することではないか。そして、羊飼いに知られたものは、逆に、羊飼いを知り、羊飼いの声を聞きわけ、ついてゆく、と。そのような羊飼いに導かれるものが救いに至る、「わたしを通って入る者は救われる」とは、そのような意味ではないか。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」とイエスは言われる。その真の牧者に日々、へりくだってつき従う、同時に、自分も羊飼いとしての使命を受けていることを意識し、イエスの心をもって託された務めを果たすことができるよう祈ろう。(S.T.)