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復活節第五主日2023年

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み言葉の典礼

 大型連休が終わり、一部には事業再開の動きもありますが、まだまだ油断のできない自粛の日々が続きます。そうする間にも教会は、もう復活節第五の主日を迎えました。

 今日の第一朗読の「使徒たちの宣教」は、誕生して間もない教会が出会った困難の一つについて記しています。教会の中に、二つのグループができ、一方から不満の声が上がったのです。教会の発展に伴って、ユダヤ人からすれば外国人のような、ギリシャ語を話す人々から、自分たちが差別を受けているという不満です。今の日本の教会が経験している問題と重なります。無意識のうちに、少数派の人々が多数派によって疎外されていたのかもしれません。使徒たちは、この問題の解決のために、食事の世話をするにふさわしい人々―奉仕者(助祭)―を選んで、自分たちは御言葉の奉仕に専念することにした、と記されています。

 ヨハネ福音書は、弟子たちのもとを去って行かれるイエスの思いを、長い説教の形で伝えています。「わたしは場所を用意しに行く」と。ただ運命に身を任せるのではなく、自らのしっかりした意志をもって、父の望まれる道を進まれます。人間が、自分の力に頼っている限り、決して行くことのできないその場所へ、イエスは道を開かれます。そして、言われます、「あなたがたはその道を知っている」と。イエスとともに日々を過ごし、イエスの言葉を聞き、イエスのなさったことを見ていた弟子たちは、それだけで、イエスが歩もうとされた道を知っていたはずです。

 しかし、トマスは言います、「わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と。そうです。まだ、わかっていないのです。イエスが苦しみを受け、十字架上でなくなり、復活して自分の姿を示されたとき、彼らははじめてわかるのです。苦しみを通って栄光へ、十字架を通して復活のいのちへ、それがイエスの歩まれる道、真の命への道なのです。 イエスはさらに言われます、「わたしを見た者は、父を見たのだ」と。イエスは、神について教えるだけでなく、文字通り、目に見える形で示してくださったのです。イエスご自身が神の姿だったのです。

 しかし、それがわかるためには、特別な目が必要でした。それは、信じるという目です。いくらイエスが神について語り、不思議を行い、病人をいやしても、信じようとしない人々には、イエスの中に神を認めることはできません。イエスのうちに父を見るためには、信じること、つまり、自分の自由な意志でそれを受け入れる心が必要です。そして、それはまさに神のみが与えることのできる恵みです。この恵みに日々応えてゆくことができますように、そして、特に、この困難な時期に、信じることから来る真の希望に目覚めることができますようにお祈りいたしましょう。(S.T.)

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