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復活節第六主日2023年

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み言葉の典礼

 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない(ヨハネ14:18)

 主イエスの公的宣教の終わり頃、サマリアの人々は、主イエスとその弟子たちがエルサレムに向かっていたため、自分たちの町を通過することを許しませんでした。私たちも、このサマリア人たちのように、偏見から自分とは違う人を受け入れなかったり、神の存在を認めなかったりすることが少なくありません。使徒ヨハネは、サマリア人が主イエスを受け入れなかったことを聞いて、憤慨しました。彼は主イエスに、天から火を下して彼らを滅ぼす許可を求めました(ルカ9:52-54参照)。主イエスはそれを拒否し、その場でヨハネを叱責されました(ルカ9:55)。

 しかし、主イエスは結局、ヨハネがサマリアの人々に天から火を降ろすことを許されました。助祭フィリポは、不信心なサマリア人に福音を力強く伝え、彼らは神のみ言葉を受け取りました(使徒8:5ff)。「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。」(使徒8:14、15)。すると、神の火である聖霊が彼らの上に降り注ぎ、神の愛で彼らを焼き尽くしました(使徒8:17参照)。主イエスはヨハネの願いを聞き入れてくださいましたが、ヨハネが期待したような形ではありませんでした。もしかしたら、ヨハネはサマリア人よりも大きな回心を受けなければならなかったかもしれません。

 サマリアの人々のように奇跡的な癒しを目撃すること、あるいはサマリアの人々の何人かのように自分で癒しを受けることは、明らかに驚くべきことです。しかし、聖霊が彼らの内に宿られるように、私たちの内に宿られるとき、傷ついた記憶に癒しをもたらし、生涯続く罪や罪悪感、恥のパターンから解放してくださいます。聖霊の働きは素晴らしいです。

 私たちは、神が地上から取り除いてくれても構わないと思っている人はいませんか。いずれ主イエスは、私たちを代理人として、これらの人々を聖霊による新しい生命に導くと想像できませんか。もし私たちが「敵」を愛するなら、ヨハネが経験したような、腹の底から痛くなるような改心が必要です。悔い改めなさい!敵を赦し、愛しなさい(ルカ6:35)。「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20:22)。これらの呼びかけはいつまでも必要があると思います。

 私たちは今聖霊降臨の祭日をお待ちしています。聖霊降臨の日に使徒たちを一変させたように、聖霊はサマリアの人々と私たちを一変させてくださいました。しかし、普遍の教会の中で、防府教会の中で、私たちの家族の中で、自分自身の生活の中で、どのぐらい聖霊の働きを感じたでしょうか。あるいは聖霊のたまものをよく認めていたでしょうか。何回も聖霊のたまものに気付かなかったことがあるでしょう。私たち自身の中にはまだ妬みや批判、文句、憎みなどがあったからです。そう言っても、他の人を赦し合うことができないわけではありません。自分を傷つけた人を赦し合って、その人を受け入れるならば、聖霊のたまものをもっと豊かに楽観的に感じることができるではないかと思います。

 ところが自分でいくら頑張っても、受け入れることができない、赦し合うことができないと思ったら、次のようなみ言葉を覚えておきましょう。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(ヨハネ14:16.18)。

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