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復活の主日2023年

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み言葉の典礼

 「ご復活祭おめでとうございます」。毎年、復活祭には、当然のように、こうした挨拶をかわします。しかし、教会の典礼で祝日を祝うのは、何か頑張ってよい結果が出た、入賞したといったときの「おめでとう」とは根本的に違うことを、意識しなければなりません。人間の努力ではなく、もっぱら、神が与えてくださった恵みに感謝し、神をほめたたえる意味だということを銘記しましょう。聖週間の最後の3日間、わたしたちはイエスの地上での生活の最後の時、弟子たちとの最後の晩餐、捕縛、裁き、十字架の道行きと死、そして、葬りを、典礼を通して静かな雰囲気の中で記念し、黙想しました。

 イエスの生涯、特に、公生活の月日はわずか3年ほどの短いものでした。しかし、その中身は実に濃く、豊かなものでした。人々に教え、病気を癒し、不思議な業を行う等、その一つ一つは、人々の意表をつくもの、彼らの考え、習慣、期待と違うことばかりでした。庶民の多くはイエスを歓迎し、喜んでイエスの教えに耳を傾けましたが、宗教指導者は戸惑い、憤慨し、イエスを危険視し、排除しようとしました。イエスは、そうした反応を避けるどころか、かえって、彼らと議論し、彼らの非を悟らせようとしました。しかし、彼らは、ますます頑なになり、イエスを亡き者にしようとたくらみました。そして、彼らはイエスを捕らえ、裁きにかけ、十字架刑に処したのです。イスラエルの指導者たちは、それで、すべては終わった、イエスの問題は解決した、邪魔物は消えたと思ったでしょう。しかし、実は、終わったと思ったことがすべての始まりであったことを彼らは予想できなかったのです。

 今読まれたヨハネの福音は、弟子たちがイエスを葬った墓を訪れたときの模様を伝えています。まず、マグダラのマリアが、朝まだ暗いうちに、だれよりも早く墓に赴き、当時の葬りのしきたりに従って、遺体に香油を塗ろうとしました。しかし、お聞きになったように、あの大きく重い墓の石は取りのけてあり、遺体はどこにも見当たりませんでした。状況を説明する天使の姿もなく、メッセージもありません。すぐに弟子たちのところに知らせに行きます。ペトロとイエスが愛された弟子は、墓に急ぎ、ペトロは墓に入りますが、彼女が言ったとおり、イエスの遺体を包んでいた亜麻布があるだけで、遺体はありません。しかし、ペトロに続いて墓に入ったもう「一人の弟子」はすべてを悟り、「見て信じた」、と記されています。十字架上ですべてを父なる神に返されたイエスは、もはや、死者の世界ではなく、新しい世界、再び死を味わうことのない神のいのちの世界へと移られたことを悟ったのです。

 復活は、わたしたちの信仰の核心をなす神秘です。しかし、それを正しく理解することは決してたやすいことではありません。死んだイエスが生き返ったことではありません。止まった心臓が再び動き出したことでもありません。「イエスが生きておられる」ということは、イエスのあのご生涯、人々が予想もせず、指導者たちが許すことができないと思った、あのイエスの教え、行動、態度、そして、あのいたましい苦しみと十字架上の死が、すべての終わりではなく、むしろ尽きることのない永遠の命、神の命への道であるということです。そして、それは、すべて神のみ心によるもの、神の望み・計画だったことの証しであり、神のYESだということです。「画竜点睛」という言葉がありますが、イエスの生涯というキャンパスの上に最後の一点を描かれたのは神ご自身だということです。復活を信じて生きるということは、イエスのあのような生き方、教えの中に、真のいのちへの道があることを肝に銘じて生きることです。

 人間は生きている限り、様々な苦しみ、悩み、痛みを経験し、自らの犯した罪に悩むことがあります。思い通りにならないことも人生の常です。そこで、落ち込んだり、自暴自棄になりかけたりすることもあるでしょう。復活は、そのような無力の経験こそ意味があり、いのちへの道である。神が何か語ろうとしておられる、その恵みの時だということです。このことをしっかり心に刻みましょう。十字架を仰ぐこと、それは、あの悲惨そのものに見えるものを、神が自らの愛を表わすものに変えてくださったということです。

 今、世界は、コロナがもたらした世界規模の悲惨に続いて、ウクライナでの無残な現実をつきつけられています。悲惨のどん底に置かれている人々に生きる希望が与えられ、世界の歩みが破滅に向かうかのように思える現実の中にあっても、復活された主が、平和への道を開き、一人でも多くの人に希望と喜びを与えてくださるよう恵みを祈りましょう。(S.T.)

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