防府カトリック教会へようこそ

年間第十三主日A年

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み言葉の典礼

 こうして主日のミサを共に捧げられるようになって一月近くになります。あらためてこの恵みに感謝いたしましょう。ただ、まだ感染拡大の危険が去ったわけではありませんし、教区によっては厳しい制限を設けておられるところもあります。油断せずに、過ごしてまいりましょう。

 今日の福音は、先週に続き、宣教に派遣される使徒(弟子)たちに向けられた戒めの言葉が中心になっています。イエスの弟子たるもの、イエスに従う決心をしたものは、後ろを振り向かないことはもとより、イエスを何物にもまさる宝として大事にするように、時には、自分にとって最も大切と思う家族、父母、息子娘をおいてでも、イエスに従うようにとの戒めです。そして、イエスが担われたように、いつ、どのような形で現われるかわからない十字架を担って、自分に従うようにと求めておられます。その根本には、すべての福音に記されているように、「自分の命を得ようとする者はそれを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」という逆説的な真理を生きるようにとの教えがあるのです。

 聞きなれた言葉、何の新鮮味もない言葉のようにさえ聞こえる、この教えをあらためて心に刻み、それを生きる恵みを祈りましょう。日常の選択・決断において、どれだけ意識しているか、ただ習慣で、その時の気分で、あるいは単なる打算、また、人々の言動に左右されて行動していないか、一歩立ち止まって考えましょう。主は何を望んでおられるのかと。コロナ禍によって降ってわいたように与えられた時が、こうした見直しの機会となったとすれば、それは大きな恵みです。

 今日の福音には、それに加えてもう一つの教えがあります。それは、福音を宣べ伝えるために派遣される弟子たちが経験することについてです。弟子たちの言葉を喜んで聞く人もいれば、それに全く関心を示さず、むしろ、反発をあらわにする人もいるでしょう。弟子たちだけでなく、イエスに従うもの皆が必ず経験することです。つい相手の反応に一喜一憂しがちなわたしたちですが、主は言われます、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」と。福音を伝えようとする者は、自分の力量、自分の知識に頼るのではなく、イエスの言葉を聞き受け入れたものとして、イエスの言葉を伝えるのです。そして、イエスの言葉は、イエスご自身の思いに先立って御父の心からほとばしりでる思いなのです。

 初代教会には、使徒や弟子に加えて、「預言者や正しい人」と言われた人々がいました。パウロがコリントの教会への手紙に記したように、霊は様々な形で人々の中で働きます。「神は教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです」(1コリ12.28)。そうした役を担う人を受け入れる人は、そうした人を遣わした方を受け入れるのであり、それにふさわしい報いを受けるのです。第一朗読の中で聞いたように、預言者エリシャを「神の人」として受け入れ、彼のために部屋を提供した夫人は、年老いて子供がいなかったのに、預言者から男子の誕生を予告され、実際翌年、男子を授かります。

 「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」とイエスは言われる。マタイ25章には、あらためて「小さな兄弟の一人」についての話が記されています。わたしたちの兄弟である一人、それがどのような人かわかりません。思いもよらない人、人が自然に避けようとする人かもしれません、その人にしたこと、それは、彼を遣わされた方、イエスを受け入れることであり、ひいては、イエスを遣わされた御父をも受け入れることにもなるのです。そのような大きな使命をいただいたことに感謝するとともに、その小さな兄弟のうちにおられる復活の主をしっかり受け止め、ふさわしいおもてなしをすることができるよう祈りましょう。(S.T.)

祈る花:Inoruhana

その他:

 今週のみ言葉の典礼は「キリストの中で生きる」というテーマになります。福音書の中で、父や母、息子や娘、すなわち血縁との関係、地上との関わりは人間にとって無視できない大事なものですが、それを越えて新たな関り、最も大切な関りがあると主イエスは教えてくださいます。それは主イエスとの関わり、神との関わり、キリストの中で生きることです。確かに、私たちは洗礼の秘跡を通して、キリストによって神との関係を回復し、新しい命に生きることができるようにされました。第二朗読の中で、聖パウロは次のように述べています。「私たちは、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなると信じます。」このミサを通して、私たちはもう一度改めて聖パウロが言ったことを確信して、主イエスとの関わりが深く強められるよう、一緒に願い求めましょう。

 今日読まれたマタイ福音は10章の最後の部分で、主イエスが弟子たちを派遣するときに行った「派遣説教」の結びに当たります。主イエスはまず、弟子たちに宣教を指示し、迫害を恐れるなと命じ(5-23節)、派遣される弟子と主は一致しているのだから、主のようにならなければならないと説きました(25節)。今日の個所では、主イエスの弟子として主のように自分の十字架に担い、主のために命を捧げるならば、かえってその命を豊かに得ると説明されています。

 さて、主イエスのために自分のいのちを失うとはどんな意味でしょうか。

 まず、私たちは皆、自分の毎日の生活が家族によって支えられていることを知っています。だから父や母、息子や娘、家族の皆一人ひとりを大切にするのは当然のことです。しかし、主イエスは家族を主イエスより愛する人は、主イエスにふさわしくないと言明しています。すなわち主イエスとの関わりを最優先しなければならないということです。これに対して自分の十字架を受け取るようになります。ここでは、家族を無視して主イエスに従ってくださいという教えではありません。むしろ、主イエスのメッセージのゆえに対立や迫害が起こることは避けられない、しかし、その中にあっても主イエスの福音に踏みとどまるようにという教えだと考えられるのです。

 十字架という出来事のうちには、命への道が示されています。生きるべきいのちを見いだし、それを獲得するためには、主イエスとの関わりは不可欠です。すなわち自分自身と自分が愛する者たちを見いだすことができます。主イエスは十字架を通して命をもたらす方だからです。それで、主イエスを通して新たな家族の絆、我々の関りの新しい絆を見いだすことができるのです。

 それから、主イエスのために自分の命を失うとはもう一つの意味が今日の福音書の後半に示されています。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(42節)。ここでは、マタイ25章の次の言葉とのつながりの中で味わうこともできます。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(35-36節)「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)。小さな人に水一杯さえを上げたら、主イエスに捧げるようになるということです。

 つまり、どんな生活でも主イエスの関りを中心として生きる必要があると今日の個所は私たちに教えてくださいます。主イエスを通して地上とのつながり、家族との関係、貧しい人々との関わり、あらゆる人々との関わりという絆を新たに見いだすことができます。そのために自分の十字架を担って主イエスに従い、自分のいのちを捧げなければならないのです。主イエスと聖母マリアのお助けによって、日々このことを実行することができますように祈りましょう。(シロハ)

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